「男の駆け込み寺」浄発願寺奥の院
江戸時代、「浄発願寺」はまたの名を駆け込み寺といい、殺人と放火以外の犯人はこの寺に逃げ込めば助けられたといいます。かつての寺跡がここにある「浄発願寺奥ノ院」で、現在は約1km下の地に再建されております。
無常山浄発願寺は、慶長13年(1608)弾誓上人開山の天台宗弾誓派本山である。上野寛永寺の学頭寺凌雲院の末寺として、江戸時代に繁栄し、4世空誉上人の時代が全盛期だった。「男の駆け込み寺」で知られ、放火・殺人以外の罪人は駆け込めば助かった。また、木食行(穀物をさけ、木の実・草の実などを火を通さないで食べる)の戒律を大正初期まで守り続けた。さらに、雨乞い・安産信仰等でも知られ、昭和初期まで盛大であった。
信者には、公家の広幡家や、徳川本家、尾張徳川家、藤堂、佐竹、大久保、黒田、有馬、小田氏等があり、境内は165,600坪もあった。寺宝としては、市重要文化財の縁起絵巻三巻や、雨乞軸、唐金の子安地蔵、出山の釈迦像など、数多くの像がある。昭和13年(1938)の山津波で、この地にあった浄発願寺は、諸堂宇が潰滅し、当地に復旧困難なため、昭和17年(1942)に約1km下の地に再建し、以後この地は浄発願寺奥の院と称し、市指定史跡にもなっている。
この地には、弾誓上人が修行した岩屋や、罪人53人に一段ずつ築かせた石段(平成3年/1991/3月再建)等があり、参道には、浮世絵師歌川国経の供養塔(現在は浄発願寺に移してある)や極楽浄土に往生できるように祈願した「南無阿弥陀佛」の各号碑などがある。
「浄発願寺奥の院」伊勢原市案内板より
「浄発願寺奥の院」案内板を右へ行くと「亮台(天阿)上人の念仏石」があります。
「浄発願寺奥の院」案内板を前に進み、一の沢橋を渡ると「閻魔堂跡」及び「宝篋印塔」があります。
「閻魔堂跡」及び「宝篋印塔」を右側にむいか向かうと「山門跡」がすぐに見えます。
「山門跡」を登り、しばらく山道を歩きます。
この先に見えてくるのが「五十三段の石段」です。
この階段を登りきると「本堂跡」があります。
「本堂跡」を左へ行き、少し登ったところに「子安地蔵跡」と「鐘楼跡」があります。
この「子安地蔵跡」と「鐘楼跡」から少し進んだ所に「奥の院の岩屋」があります。