厚木市 広沢寺
足利上郡関本最乗寺の開山了庵慧明禅師が、この地に庵を営み露白庵と号したことに始まると伝えられており、住僧原佐禅師のとき露白庵を一寺としした。上杉定正は、禅師に深く帰依し寺を庇護した。広沢寺は、定家の菩提寺となり定正と鶴姫の墓が建てられている。
「厚木市産業振興部観光振興課」案内板より
「下向き地蔵」と「豆腐地蔵」
下向き地蔵(左側にある地蔵様です)
昔、七沢の石工の弟子が地蔵様を造ったが、できあがるという時に鼻を欠いてしまった。弟子はもう一遍造ったが、できあがった地蔵様は申し訳なさそうに下を向いておった。そこで親方は「地蔵様を高い所へのせれば、お参りに来た人に優しく語っているように見えるで」と弟子に台石を造らせて、地蔵様を高い所に上げさせた。この地蔵様を誰言うとなく「下向き地蔵」と呼ぶようになったそうな。
広沢寺第十六世蔵雲恵密代(一、七三七)造
豆腐地蔵(広沢寺本堂に安置されています)
ある雪の積もった朝、七沢の豆腐屋が家の前を見ると、山に向かって誰かの足跡がついていた。「こんなに朝早く来た人もいるもんだ」と足跡をたどって行くと、広沢寺奥の地蔵堂の所でとまっていた。主人は豆腐を置いて帰ってきた。その夜豆腐屋の夢の中に地蔵様が現れ「私は及川村のある寺におった地蔵だが、及川村は豆腐屋がなくこの七沢にやってきた。これからも頼む、そのかわりこの村に来る疫病を追い払ってやる」
村の人々はこの地蔵様を豆腐地蔵と呼び、毎日毎日豆腐を上げお参りし、みんな長生きをしたそうな。
「厚木らしさの創造推進事業玉川地区協議会」 案内板より
七沢城址の概要
室町時代の中ごろ、宝徳2年(1450)のことです。鎌倉公方(かまくらくぼう)足利成氏(しげうじ)の近臣たちと関東管領山内(かんとうかんれいやまのうち)上杉憲忠(のりただ)の重臣たちとの間に争いが起こります。上杉方に攻められた成氏は、いったん江ノ島にのがれますが、七里が浜での合戦で上杉方は敗退し、憲忠は七沢(ななさわ)山に要害を構えました。成氏は、この年5月に成り行きなどを記した書状を室町幕府に差し出しました。これが「鎌倉大草子」という書物の中に残っており、初めて文献の中に、七沢城に関する記述が登場することになります。
長享2年(1488)、山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏の間の不和が高じ、山内上杉顕定(あきさだ)が、当時扇谷上杉氏の所有していた七沢城方面に襲来します。扇谷上杉定正(さだまさ)は川越から一昼夜で駆けつけ、七沢城附近の南実蒔原(みなみさねまきはら)において、少数の兵で顕定の大軍を破り、奇跡的な勝利をあげました。これが実蒔原の合戦です。しかしこの時、定正側にも大きな痛手が生じたらしく、一説には、この時七沢城主であった七沢朝昌(ともまさ)(定正の兄弟)が戦死したとも伝えられています。七沢城が最終的に放棄された時期について、はっきりしたことはわかっていません。恐らく、小田原北条氏がこの制圧する16世紀半ばではなかったかと思われます。城の中心は、現在七沢リハビリテーション病院脳血管センターが建っている部分と思われますが、病因の東側、市立七沢児童館の建設に先立って行われた発掘調査の結果、ここにも15世紀の建物址などが残っていることが発見されました。建物址には、火災を被ったような痕跡があり、16世紀まで下らずに放棄されたようです。もしかすると実蒔原の合戦の際に炎上したのかもしれません。七沢城は中世の山城であり、江戸時代の天守閣を備えた城とはかなり違ったものだと思われます。丘陵の地形をうまく利用し、部分的に造成を行いながら、相当な面積にわたって、大規模な砦のようなものを築いたのではないでしょうか。この付近には、七沢城に関連すると思われる古い地名が残っています。
「厚木市産業振興部観光振興課」案内板より